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 現在では女性の――生活の様式がどうしても単調で変化に乏しいと云う点、自分が女性としての性的生活を完全に営んでいなかった事又は、女性の一人として同性の裡に入っていると、自分達の特性に対して馴れ切って無自覚に成りがちであると一緒に、却って欠点が互に目に付くと云うような諸点から、今まで自分にとって女性の生活は、事実上、常に一種の幻滅を感じさせていた。
 かくあるべきもの、かくあり度いものとして彼方に予想する女性の生活は、遙に今日実際在るその物よりも自分の心を牽つけた。自分の裡に在る一部の傾向で理想化した女性の概念を直今日の事実に持って来て、それと符合しない処ばかりを強調して感じ失望したり、落胆したりしていたのである。
 一口に云えば、自分は「人」から思想を抽象するのではなく、逆に、思想を人に割当て、或る概念の偶像を拵らえようとしていたのだとも云えるだろう。
 女性に就て云っても、或る時には、感情的、理智的又は智的、無智等と云う大まかな、蕪雑な批評で安んじるような傾向が決して無いとは云われなかったのである。
 けれども、人は決してそんな単純な形容詞で一貫するような性格を持っているものでは無いのだ。
 複雑に複雑を極めた箇性の内面の力が、圏境や過去の経験に打たれ、押し返し、揉み合って一歩ずつ、一歩ずつ今日まで歩み進んで来たのが、今日のその人でありその人の生活であるのだ。箇人の内的運命と外的運命とが、どんなに微妙に、且つ力強く働き合って人の生涯を右左するかと思うと、自分は新しい熱心と謙譲とで、新に自分の前に展開された、多くの仲間、道伴れの生活の奥の奥まで反省し合って見度く思う。自分が人及び女性として、漸々僅かながら立体的の円みをつけ始めると、同性の生活に対して、概念でない心そのもので対せずにはいられなく成って来た。所謂婦人問題の、題目を研究し理解しようとするのでは無い。種々の問題を起す、最も根本的原因である女性の心そのものを、心そのもので観、考え、批判して行き度く思うのである。

 旅行では一人旅よりも、気の合った友達と行くのが好きです。展開されゆく道中の景色を楽しく語合うことも出来ますし、それに一人旅のような無意味な緊張を要しないで気安い旅が出来るように思います。煩いのない静かなところに旅行して暫く落ちついてみたい――こんな慾望を持っていますが、さて容易いようで実行できないものですね。住いですか? これには面白い話しがありますのよ。今いる家は静かそうに思って移ったのですが、後に工場みたいなものがあって、騒々しいので、もう少し静かなところにしたいと思って先日も探しに行ったのですが、私はどちらかというと椅子の生活が好きな方で、恰度近いところに洋館の空いているのを見つけ私の注文にはかなった訳ですが、私と一緒にいる友達は反対に極めて日本室好みで、折角説き落して洋館説に同意して貰ったまではよかったのですが、見たその洋館というのが特別ひどいところだったので、すっかり愛想をつかされてしまいました。仕方がないから両様の好みを入れて一軒建てようということにして設計までいたしておりますが、これも今のところ私達の理想に止まってなかなか実現されそうにありません。こうした些細な慾望や、理想は兎も角として、この地上に誰れもが求め、限りもなくのぞむものは平和と愛ではないでしょうか。各々もとめるところの形は皆ちがいましょうけれど、私達の理想とするものは、愛と平和の融合を措いてこの世の楽園は考えられないと思います。然し常にこの世に争闘が絶えないと同時に、それは実現し難いものだと思います。例えば親子間の愛――この世にたった一つしかないいきさつですらも、どれだけ円満にいっていましょう。愛と平和――それは今の経済学、哲学とかの学問で説明したり、解剖したりする論理としての論理でなく、皆の分かり切った常識として、人間の生活に自由なものとなって来たら、愉快なことだと思います。

 細い雨足で雨が降って居る。
 薄暗い書斎の机の前にいつもの様に座って、私は先ぐ目の前にある楓の何とも云えず美くしい姿を見とれて居る。
 実に美くしい。
 非常に肉の薄い細く分れた若葉の集り。
 一つ一つの葉が皆薄小豆色をして居て、ホッサリと、たわむ様にかたまった表面には、雨に濡れた鈍銀色と淡い淡い紫が漂って居る。
 細い葉先に漸々とまって居る小さい水玉の光り。
 葉の重り重りの作って居る薫わしい影。
 口に云えない程の柔かさと弱い輝を持った気味悪い程丸味のある一体の輪廓は、煙った様に、雨空と、周囲の黒ずんだ線から区切られて居る。
 私はじいっと見て居る。
 絶え間なくスルスル……スルスル……と落ちて来る雨は此の木の上にも他のどれもと同じ様に降り注いで居るのに、楓のどの部分も目に見えぬ微動さえ起さないで、恐ろしい静けさで立って居る。
 何と云う落付いた事なのか。
 此のしなやかなたよたよしい楓がそよりともしないと云うのは――
 若し指を触れたら温かい血行を感じ人間の皮膚の通りな弾力を感じるだろうと思う程「なまなましたふくらみ」を持って居る木は、私に植物と云うより寧ろどうしても動物――而かも人間の女の様な気持を起させた。
 余り柔かである、美くしすぎる。
 余り静かにして居る。

 降りたくても降れないと云う様な空模様で、蒸す事甚い。
 今朝も早くから隣の家でピアノを弾いて居るが気になって仕様がない。
 もう二三年あの人は、此処に別荘を持って居て、ついぞ琴の音もした事がないのに、急にピアノがきこえて、それが又かなりよい音だ。
 おとといの晩から、何かして居ても、聞えると、一寸手をとめて耳をすます。
 食堂の出まどに腰をかけて、楓の茂みの中から響いて来る音に注意すると、Haydn のものらしい軽い踊る様な調子がよく分る。
 弾手は男かしら女かしら。
 女の人にしては少し疎雑な手ぶりがあるが、いつの間にとりよせたか、来たかしたんだろう。
 私は、そんな事をかなり真面目に考えて居た。
 その音をきいて居ると、急に、自分のピアノのFaのシャープの出ないのが気になり出す。
 雨がつづいて居る時分からああなり出したので、天気がなおるとよくなるまいものでもないと放って置いたけれ共、一向によくならない。
 今日はどうしても高井にたのまなければならないからと思って電話をかける。
 声の太い頭の鈍そうな男が出て、私が早口だと見えて、
「おそれ入りますが、どうぞ、
 もう少しゆっくりおっしゃって下さい。
と云う。
 主人が旅行中で十四日後でなければと云う。
 それでよいから、次手に、マンドリンの第一の絃を二本持って来て下さいと云ってやる。
 楽器屋や本屋の取次が、はきはきして居ないのはほんとうに気持が悪いと思う。
 早口で云われるとききとれない様な頭では駄目じゃあないかと思ったりして居ると、母が寿江子の頭がひどいから来て見ろと云う。
 ほんとにまあ可哀そうに、頭の地一杯に何だか、かさぶたの様なものがついて居る。
 産れた時すぐオーレーフル油で拭いてやるべきを、あの看護婦がしなかったのだと云う。
 口の中の消毒が完全でなくて、「がこうそう」が出来そうにまで、舌苔の様なものをつけさせた上にこんな事までして行ったかと思うと、あの髪のちりちりの四角ばった頭の女が憎々しく思い出される。
 母が何か少し差図めいた事を云うと、すぐ変な顔をし万事のみこんで居ますと云う様な態度が、居る時からいい感じを与えて居なかった。